赤城山の南西斜面、旧赤城村三原田にこの舞台はある。建設は文政2年(1819)。天竜寺という寺の境内に建てられたものを、明治15年に現在地に移築している。小振りだが、分厚い茅葺き屋根がどっしりとした重みを感じさせる造りである。
舞台には仕掛けが多い。まず建物の左右と後方の板壁を、パタパタと外側に倒す。板壁はそのまま舞台の床となり、舞台面積が倍以上に広がる。これをガンドウ返しという。初めに大きいと感じた茅葺き屋根は、広がった舞台のときに釣り合いの取れるものなのだろう。
舞台作りでは栃木県烏山の山あげ祭りを思い出す。一般道路の真ん中で芝居を演じる山あげ祭りでは、大道具や小道具など載せてきた台車が舞台となる。こちらは台車上に平面に重ねてあった2枚の板を、はがすように起こして広げ、大きな舞台とする。ものの20分ほどで作り上げ、上演が終われば撤収。1日6公演。町の各地で行う。
上三原田の舞台では、正面の奥に「遠見」と呼ぶ背景の絵をつける。いわゆる「書き割り」の一種で、舞台に奥行きが感じられるようになるわけだ。いっぽう山あげ祭りははるかに大掛かりで、「山」と呼ぶ竹と和紙で作った背景を舞台から約100㍍の後方にまで置く。みごとだ。
上三原田の圧巻は、廻り舞台とセリヒキ機構だ。舞台を廻してセットを変えるとともに、舞台下の奈落からも舞台セットを上げ下げする。同時に天井からも違う舞台セットを吊って上げ下げし、舞台の場面転換を行う。これをセリヒキ機構と呼び、奈落と天井の2つの舞台セットを「二重」と言っている。二重の、上げ下げの呼吸が難しい。
野外になる桟敷席も工夫がある。上演時だけかまぼこ型の天井で覆うことにより、役者の声や三味線、鳴り物の拡散を防ぎ、桟敷席後方まで届かせるのだ。舞台を吹き口にしたラッパの構造ともいえる。
上三原田の舞台にしても山あげ祭りにしても、巧みなアイデアと技術に目をみはる。そしてそれを支え続ける人々の力が素晴らしい。