早春の2月下旬、久方ぶりに「花とロマンの里」松崎を訪ねた。日進月歩で様変わりするご時世にあって、食いしん坊の私が好んで通った大沢温泉にある「鮎の茶屋」、松崎町内の蕎麦処「小邨」や鰻の「三好」、松崎の古き良き時代を彷彿とさせる喫茶店「フランボワーズ」など、すべて健在だったのが嬉しかった。
歴史の宝庫でもある松崎は、江戸時代の松崎が生んだ漆喰鏝絵の名手・伊豆の長八の作品を集めた「長八美術館」や国の重文指定「岩科学校」、江戸城建設時の石垣に使われた御影石を切り出した跡の「室岩洞」などが歴史的観光名所になっているが、松崎にとって、もうひとつ忘れてはならないのが生糸に関する歴史である。
気候温暖な松崎は、日本で最初に繭相場が開かれ、その年の生糸の値段が決められた。かつて、対米輸出の花形であった絹は日本国内よりもアメリカでの方が有名だった。甲州・武田勝頼の重臣だったという大沢温泉ホテルを経営する依田家の祖先が天目山の戦いに敗れ、この地に逃れ住み大城屋として定住した。明治初年、11代当主・依田左二平の時、区有地を開放して桑畑を作り、養蚕を開始。民間としては最古の製糸工場「松崎製糸」を開業した。製品は那珂川を川舟で松崎港へ運ばれ、大船に積み替えられて海路横浜へ運ばれた。群馬の「富岡製糸」から現在のほぼ旧国道16号線を通り、横浜の渋沢倉庫へ運ばれたのが陸のシルクロードなら、松崎からの海路はさしずめ海のシルクロードだ。
山深い飛騨地方から身売りされ、安い賃金で泣く泣く働かされた女工たちが「女工哀史」として知られた長野「片倉製糸」をはじめ、同様の苛酷な労働条件下にあった各地の製糸工場とは打って変わって、松崎製糸では高賃金、高待遇で雇い、これからは婦女子にも教育が必要と、学校令ができる以前に雇用する女工のために松崎小学校の前身「謹申学舎」を創設。更に険しい峠を越えずに通行できるよう、私費で婆沙羅峠に手掘りのトンネル(現在は荒れ果てて通行不能)を掘り、下田へ通ずる道を確保して「豆陽学校」(現下田北高)を開校して、女工たちを通わせた。このように大切に扱われたので、巷では娘が松崎製糸に勤めていると羨ましがられたという。大正6年、工場は松崎へ進出,この当時が松崎製糸の最盛期であった。
生糸で栄えた大沢の里も大正8年、左二平が中風で倒れ、不景気な時代背景もあって衰退の一途をたどりはじめ、大正12年の関東大震災で横浜の渋沢倉庫に預けてあった生糸が罹災し、松崎製糸も倒産した。後の大沢温泉ホテルの先代(17代)当主、故・依田敬一氏は昭和50年から3期12年間、松崎町長を勤め、松崎町を「花とロマンの里」のキャッチフレーズで一躍世に知らしめた人である。
松崎最大の産業だった生糸の歴史は、つい先年まで市内の目抜き通りの一隅に繭を象ったモニュメント、国道136号線沿いにあった「繭の資料館」も今はなく、重文「岩科学校」の一隅にひっそりと展示されているのみ。誠に淋しい限りである。