ウラヤマから中央分水嶺への旅|檀上俊雄

ウラヤマから中央分水嶺への旅

昨年来遠出をやめて近くのウラヤマへ向かうことが多い。湖西から京都北山は気候の移行帯にあたり冬など雪が積もりブナ林が広がるのが気に入っている。くたびれが目立つ我が家をハンドメイドでウッディなものにして、ステイホームをステイロッジという雰囲気に変えると、連日の日帰りハイキングもアルプスの心地よい山小屋を拠点にした山旅気分となるから不思議だ。

登山を始めた京都での大学生時代に足跡を残した山へ50年ぶりに訪れてみると、伐採地は鬱蒼とした森となり、植林地は不良林が増えて、世の中同様に山も様変わりして驚かされる。そうした身近な山から奥山へ分け入ると、森に大型野生動物が生息するほんものの自然の魅力ばかりか、厳しくも豊かな暮らしであったという旧きよき時代の山に生きた人たちの多くの生活遺産が残されている。京はいなかにあり、そのウラヤマ歩きはこうした多くの出会いがあって、思いのほか濃密な時空の旅が楽しめて気に入っている。

そうした場所のひとつに安曇川源流の山々がある。琵琶湖へ注ぐ川で上流には京都府下最高峰の皆子山があって、深い渓谷の先は隆起準平原地形の高原状でなだらかな源流部が広がる。そこには百井という山村があって、村社は筏流しの人たちの信仰が厚い思子淵が祀られているように京の都へ材木を伐り出していた。また若狭からの「京は遠ても十八里」と詠われた鯖街道古道や、京の都が消費する炭の一大生産地であった久多から問屋の集まる鞍馬へ運ぶ道の中継地でもあった。湖岸から比良比叡の間に姿を見せる百井の山並は府県をまたぐとはいえ、これらの山頂に立てば京の都より近くに琵琶湖を望むことができる。

百井から桂川鴨川との分水嶺に至る間に放射状にのびる多くの谷には古い山道が残り、これをたどれば山田跡そして炭焼き窯跡が次々と現れて、源頭の水が生まれる場所まで山の仕事場であったことがわかる。北側の支流大見川流域、さらに久多川や針畑川流域があって古道をたどれば大見、尾越、久多、そして再び滋賀県となり針畑の山村があって、それらのウラヤマをたどれば百井と同じような世界が広がっている。琵琶湖と日本海を望む中央分水嶺を越えて若狭へ道は続く。

車の無い時代では日帰りで歩き仕事をして往復できる範囲が生活圏、登山者的に考えても想像を超える広さだ。分水嶺を越える峠道をたどれば、両側を削って拡張した道形やお地蔵さんが路傍に残ることから、多くの荷が背負われたり荷車で運ばれたこともわかる。過去と現代の暮らしを、川の下流と上流を、日本海側と太平洋側を、山の裾野と山間を、そして遠ざかっていた豊かな自然への希求や豊穣の北国への憧れといったものまで見事につないでくれる。

想定外のステイロッジの旅は会を重ねるごとに手ごたえ十分、道連れもでき間合いを取りながら例会としても行っているが、まだまだ続きそうだ。
(檀上俊雄)

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雪の積もるウラヤマからの琵琶湖

ウラヤマから中央分水嶺への旅