「町屋再生プロジェクトだけでなく、その前身の活動から認めていただいたことが、とても嬉しいんです」
むらかみ町屋再生プロジェクトの吉川真嗣会長は、式前日・7月11日に村上入りした筆者に、開口一番、こう切り出した。平成16(2004)年にスタートしたプロジェクトだが、それに先立つ約7年の“前史”がある。
城下町・村上は、大火や戦火を逃れ、平成に入ってもなお、歴史ある街並みが残されていた。ところが、平成9(1997)年、道路拡幅を伴う大規模な近代化計画が持ち上がった。その折、吉川氏は会津復古会の五十嵐大祐氏(故人)との出会いをきっかけに、村上の街並みの貴重性に気付く。
最初は近代化反対の署名を行ったが、地域の猛反発を招いた。しかし、ある時、吉川氏が経営する「千年鮭きっかわ」を訪れた旅行者が、店内に吊るされた鮭を1時間、じっくりと眺めて「いいなぁ」と感想をもらしたことから、「村上のいいところは、外ではなく、中にある」とひらめいた。
翌年、「村上町屋商人(あきんど)会」を結成。手書きの散策地図を配布し、観光客に生活空間である町屋の内部を公開した。知名度が上がり、観光客との間に交流が生まれ、地域の人たちにも変化が生まれていった。そこから「町屋の人形さま巡り」「屏風まつり」の開催に繋がり、十数万もの人が訪れる一大イベントへと成長していったという。その後、ブロック塀の上から板を貼ることで景観を変えていく「黒塀プロジェクト」などを経て、市民基金を設立して町屋の整備再生に取り組む「むらかみ町屋再生プロジェクト」が立ち上がっていったのである。
鉄道旅を好む筆者にとって、このようなまちづくりを知るきっかけとなったのが、平成14(2002)年の「SL村上ひな街道号」の運行であった。吉川氏によると、平原悟村上駅長(当時)が、村上の人たちの情熱に心を動かされ、実現したものだという。しかも本来、SL運行に必要な地元自治体の負担金もゼロという破格の条件だったそうだ。現在もイベントに合わせたSLなどの臨時列車の運行は続いており、JR東日本との連携も誘客の1つになっている。
興味深いのは、プロジェクトをどのように進めていったのかという点だ。吉川氏は「会議を開かなかったことが、結果として上手くいった」と話す。その代わり、吉川氏が情熱をもって、商店街1軒1軒をこまめに回り説得、様々な取り組みについて承諾を取り付けてきた。いわば、小さな成功を積み重ねることで、大きな成功へとつなげてきた格好だ。「村上のまちづくりは吉川氏から始まった」と云われるのも納得である。
村上で行われた式から戻ると、東京も蝉しぐれの季節となった。セミは一般に7年間、地中で暮らすとされ、繁殖という一大プロジェクトに挑む。その意味では、村上のまちづくりも「7年」という準備期間を経たからこそ一つのプロジェクトとして花開いたように感じる。平成26(2014)年以降、プロジェクトは、町屋再生から“空家再生”へと、新たなステップに進んでおり、これまでに再生された町屋は、合わせて50軒以上にのぼる。それらの町屋を前に吉川氏は笑顔で胸を張った。
「私たちは、まちを新しくするために、見た目を古くしたんです!」
(文・写真:望月崇史)
※旅びと2020年7・8月号より
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受賞の対象となった村上の町並みを当時の思い出話を交えながら案内してくれた吉川氏。