ここに一枚の写真がある。これは山梨交通電車線の最終日に乗り合わせた学生が車内風景を撮ったモノクロ写真である。山梨交通鉄道線回想録(発行:ネコパブリッシング)にも掲載されたこの写真の注釈には「最終日と言っても、今のように一日中超満員ということもなかった。若そうな車掌さんの表情も、どこかうつろで、寂しそうに感じるのは、気のせいであろうか」と感想が述べられていた。
この写真に写っていた車掌さんのことが気になって山梨交通に恐る恐る問い合わせしてみると「この方は川崎さんではないでしょうか」とお名前が出てきたのである。さらに川崎さんに連絡して今もご健在であることも確認して頂いたのだ。写っていた車掌さんのお名前が川崎信幸さんと分かった瞬間だった。こんなにもあっさりとお名前と連絡先が判明できたのは、電車線の廃線後はバスの車掌として乗務、その後本社のバス部門にて事務員として働いておられたからである。取材にも応じて頂けるとのことで後日教えて頂いた連絡先に電話を掛けてみた。
電話口に出られた川崎さんは「もうだいぶ前の話なのであまり記憶にありませんが・・・」と言いながらも当時35歳以下の者はバス部門に配置転換となり「電車線代行バス」の車掌としてバスに乗務されたこと。当時のバス車掌の多くが女性であったので男性は珍しがられたことなどすらすら話し始めた。「川崎さんからもっと記憶の糸を手繰り寄せたい」そう思うといたたまれずに川崎さんの住む南アルプス市へと向かった。
ご自宅では早速、山梨交通鉄道線回想録で掲載されていた写真をご覧頂きながら当時の様子をお伺いした。しかし、電車線最終日のことは「寂しいなどという気持ちはなくただ頭が真っ白で最後に乗務したときのことはあまり覚えていません」とのことであった。しかし、「電車線代行バス」の車掌で乗務した時のことは覚えているそうで、それはバス路線の道路が電車線の脇を通っているところもあり、線路がところどころ見えたそうだ。やがて月日が経つと線路が草で覆われると次第に線路が見えなくなくなり廃線を実感するにつれ寂しい気持ちが込み上げてきたという。
電車線については朝夕のラッシュ時にはよく乗客が乗ったそうで、一両編成の車両はすし詰め状態で乗務員室まで乗客が押し寄せてきた。そんな時は車外の連結器に立って列車にしがみついて運行したこともあったという。車内がどんなに混んでいる時でもホーム上に積み残しをせずに運行したことを今でも誇りに思っているそうで、そこには年間数百万人を運び市民の生活を支えているという使命感があった。そして人々から親しまれることを肌で感じることで郷土愛も生まれていたのである。電車部門の従業員の多くがバス部門に配置転換となっているが、こうした電車線で培われたDNAはバス部門へと受け継がれたことになる。
川崎さんは当時を知る電車線最後の車掌であるが、令和2年12月15日、山梨交通電車線旧貢川駅跡地にミニ公園が整備され記念碑が建立された。「くがわ」と書かれた駅名標や当時電車線で使用していたレールや敷石を使って電車線の様子を再現された。この記念碑はここに山梨交通電車線があったことを永遠に伝え続けていくであろう。
取材協力■山梨交通
(諸井泉)
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今日が最後の車内風景。車掌は若き日の川崎信幸氏(出展:山梨交通鉄道線回顧録)