ステイホーム自粛のすゝめ|望月崇史

2020年春、プロ野球の世界で活躍された関根潤三さんが亡くなった。いまから11年前の平成22(2010)年、ラジオ番組にゲストでお越しいただいた際、関根さんは戦争中の体験について話して下さった。当時、法政の学生だった関根さんは、戦争末期、広島に新型爆弾が投下されたという噂を耳にした。「日本はもう終わりかもしれないね」。そう思った学生仲間どうし、「最期に温泉でも行こうか」と、鬼怒川温泉へ旅行に出かけたそうだ。旅先の鬼怒川で関根さん、玉音放送を聴いて我に返った。急ぎ帰京して宮城(現・皇居)前でひれ伏す人たちの姿を見ると、「自分たちは何とひどいことをしていたのだ」と後悔の念に駆られたという。しかし、そのまま日比谷の交差点を渡って銀座のまちに入ると、戦争が終わった喜びに溢れ、にぎやかに歩く多くの人の姿があったそうだ。「みんな、戦争はイヤだったんだな」と気付いた・・・そんなことを話されたと記憶している。

その翌年、東日本大震災が発生した。地震翌日、福島第一原子力発電所が爆発した。関根さんが放送で仰った言葉が甦った。「日本はもう終わりかもしれないね」。気が付くと私は、熱海の温泉ホテルの予約を入れていた。この日、首都圏の鉄道は運休も多く、時刻通りに運行していたのは東海道新幹線くらい。行ける温泉は熱海くらいしかなかった。「計画停電があるかもしれませんが、どうぞお越しください」女将の言葉に甘えて「こだま」号に乗り込むと、車内には私しかいなかった。そのまま16両編成の列車は東京駅を発車、たくさんの空気を運びながら熱海に着いた。走り湯近くの大きな宿にチェックインすると、「本日はお客様だけでございます。お風呂はご自由にお入りください」と中に通された。ほかに誰もいない大きな浴槽で「これが人生最後の温泉になってしまうのか?」、ふとそんな思いが脳裏をよぎった。しかし、湯船からオーバーフローしていくお湯に身を委ねているうち、「いや、そんなことはない。まだまだやれることはある!」と気持ちを新たにした。地球の恵みに癒され、救われた自分がいた。

昨年(2020年)、戦時中の旅行事情について調べる機会があった。目にした文献によれば、昭和19(1944)年以降は「不要不急の外出は自粛」となっていた。とすれば、関根さんの昭和20(1945)年8月の鬼怒川旅行は、いまよりずっと周囲の目が厳しかったであろう当時を鑑みても大冒険、覚悟を決めた旅だったのかもしれないし、「不要不急の外出の自粛」のお達しが有名無実化していたのかもしれない。

私も昨年、外出自粛を実践したが、心のバランスがおかしくなってしまった。カウンセリングを受けて気づいたのは、私は「旅で心のバランスを取っていた」ということだ。私は決めた。「ステイホームの自粛」だ。旅はお上に云われてするものではない。自分の意思で決めるもの。思えば、江戸時代の日本人は大きく移動制限されていたが、「信仰」を理由に伊勢参りなどの旅を楽しんできた。関根さんの勇気もしかり、私も先人たちに学ぼうと思う。

自分の命を守るために、私は今年も旅に出る。

(望月崇史)

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