芭萑が「おくのほそ道の旅」において、源義経ゆかりの地を巡ったことは知られているが、同行曾良が、新田義貞等、悲運の武将に関心を寄せていたことは、あまり知られていない。曾良が『曾良旅日記』の中で記した武将は、大概悲運の武将である。
一、曾良、悲運の武将の跡を訪ねる
「おくのほそ道」・『曾良旅日記』を見ると武将の中でも、奮戦あえなく敗れ去った武将、天皇を奉じ忠義を尽くして敗れ去った武将などに目を注いでいる。
平泉では悲運の武将、十郎権頭(ごんのかみ)兼房を詠じている。
「卯の花に兼房みゆる白毛(しらが)かな」
芭蕉が「あなむざんやな、甲の下のきりぎりす」と詠じた斎藤実盛については「曾良旅日記」に
・・・・多田八幡へ詣デテ、真(実)盛が甲冑・木曾願書ヲ拝・・・・とあり、敬意を表して、奉納句を詠んでいる。
「幾秋か甲にきえぬ鬢の霜」
『曾良旅日記』後半の「近畿巡遊の旅」(元禄四年)では、以下の武将を記している。
楠木正成、明智光秀、真田幸村(信繁)、藤堂家討死した六人の武将、北畠顕家(あきいえ)、本田出雲。
ニ、『曾良旅日記」に 新田義貞ゆかりの地を記す
曾良が、新田義貞ゆかりの地を訪ねたことが四度ほどあり、他の武将よりも多い。四例すべてあげてみる。(一)(ニ)は「おくのほそ道の旅」、(三)(四)は「近畿巡遊の旅」。
(一)八月八日・・・・福井ノ方へ十丁程往テ、新田塚左ノ方二有・・・(元禄二年)
(ニ)八月九日・・・食過テ金ヶ崎へ至ル。山上迄廿四五丁。夕ニ帰・・・(元禄ニ年)
(三)四月二十七日・・・小松本間遠矢ノ場・・・(元禄四年)
(四)五月八日・・・右ノ方ニ小キ宮有義貞ノ宮ト云勾當内侍モ此寺二行キ住玉フニ依テ此宫ヲ立テシ由(元禄四年)
各々説明すると、
山中で芭蕉と別れたあと、福井の燈明寺畷(なわて)で、義貞の墓を訪ねた。(ニ)曾良は、敦賀で金ヶ崎の城跡へ行った。城跡の調べと新田義貞奮戦の跡を見るためである。「おくのほそ道」には記述がない。(三)兵庫で浜を歩いた曾良。1336年、新田義貞軍が足利の水軍と対峙。かなり距離があったが、新田軍の本間孫四郎が、足利の水軍めがけ遠矢を射て、両軍の喝采を浴びた。そこで、この地を遠矢浜と言う。曾良は弓術の免許皆伝で、関心が強かった。(四)五月八日、嵯峨野巡遊の日。もと往生院の地を巡り、現在の滝口寺の境内で、新田義貞の宮を訪れ、義貞と勾當内侍(こうとうないし)との物語を思いうかベた。(完)
(櫻庭康夫)
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生品神社の新田義貞像