福田 徳郎

誰でも知っている東海道五十三次は、日本橋から京都に向かって最初の宿場が品川宿だ。17世紀初めに徳川家康が整備したと言われるが、追々出来上がって今の53次になったのは半世紀ほど経ってからのことらしい。

その旧品川宿場のあとは江戸歴史ブームでさま変わり、おしゃれになったと聞いて、八ツ山橋から青物横丁までウナギの寝床のような宿場をモノクロフィルムを詰めたカメラを持って散策してみた。

初代の八ツ山橋は、日本最初の鉄道の線路をまたいだ木造だったが、その後石造りから鉄橋に替わって名残が残る。

幕末に薩長の攘夷派の侍たちが屯し、イギリス領事館を焼き討ちした拠点の「土蔵相模」は広重も品川の浦の風光に描いている。その浦の潮だまりには古い民家とビルが入り交じって、不思議な雰囲気をかもしだす。鯨が迷い込んできて大騒ぎになった州崎は埋め立てられ、利田神社の神域に「鯨塚」が残る。品川の海を埋め立てたのは幕末の黒船騒ぎで、江戸防衛の最前線だった御殿山下を五角形に埋め立て、砲台を据えた。町は台場の形のママ残っている。

旧東海道は電柱を撤去し、町があか抜けてすっきりした。列島の宿場町に多い「シャッター商店街」がないのだ。お休みどころや飲み物、食べ物を扱う小さな店も親切だし、旧街道に沿って軒を並べる寺社も頼めば気さくに拝観させて貰える。品川宿場はもともと「岡場所」として中山道の板橋宿と同じように婦人が待ち受けてサービスをする、男ばかりの江戸武士社会の「特飲街」の役目も果たしていた。
それだけに宿場の規模も大きく長く、北から「徒歩新宿」「北品川宿」「南品川宿」と分かれていた。宿場には、江戸屈指の標高を誇る品川神社の「お富士山」、将軍家光の信頼が厚かった沢庵和尚や明治の元勲と称された板垣退助の墓地、それに東海寺の墓域には70数基の肥後熊本藩の細川家の墓所もある。とまれ、京浜急行の駅に沿って3駅歩くだけで一日が楽しめる。

お昼の食事は「幕末太陽伝」の主人公で落語の「居残り佐平次」が舞台の品川宿場「魚河岸料理佐平次」がおすすめですね。

福田 徳郎