立木 寛彦

尚古集成館は鹿児島市の北部、錦江湾を手前に雄大な活火山・桜島が望める位置にある。幕末の頃、薩摩は我が国の最大の南玄関口であった。薩摩国を治めた島津光久(みつひさ)(十九代当主)は琉球王国と共に西欧文明を積極的に取り入れ江戸に信頼を高めた。後、二十八代斉(なり)彬(あきら)は城内に精錬所を設け、反射炉を試し溶鉱炉を完成した。他にガラス製造所、陶磁器製造所、鍛冶場、鍋釜製造所、製薬所などを整備し富国強兵を推進した。安政四年にこれらの工場を「集成館」と名づけた。

文久三年、イギリス艦隊の攻撃を受け焼失。薩摩藩は近代兵器を必要とし蒸気鉄工機械所を新設し、再興を計った。明治四年に陸軍省の管理で「大砲製造所」となり、後に民間に払い下げられた。島津家は復旧に尽力するが振るわず閉鎖され、蒸気鉄工機械所を倉庫として残した。大正八年三十代忠(ただ)重(しげ)は島津家の歴史、文化を残すため「尚古集成館」として開館した。昭和三十七年に「旧集成館機械工場」として建物が重要文化財に指定され、近代遺産の博物館として現在に至っている。

敷地内には五万平方メートルの日本庭園を有している。冒頭の光久によって築庭され、中国の龍虎山の仙巌にちなみ「仙巌園」(国指定の名勝)と名付けた。園内は反射炉の跡地や百五十ポンドの大砲、磯御殿は二十九代忠義(ただよし)公が本邸として使用していた。正門もそのまま残り、遺産の宝庫として島津藩史跡は磯地区を含めて世界遺産の登録に全地域が頑張っている。

立木 寛彦